カキン、と小気味良い音がして、白球は青に吸い込まれた。
どこまでも空は高く青く広がっていて、太陽の白く鋭い光によって白球は瞬く間に見えなくなった。
わああぁぁ!と歓声が上がり、バッターの少年はその手を空に突き上げた。
Over
中学野球地区大会決勝戦。
オレたち並盛中生徒は全校応援のために真夏の屋外に集められた。
日陰になるものなど何もないスタンドでじりじりと太陽に焼かれて、文字通り汗が噴出す。
スタンドは両校の生徒が陣取っている1塁側と3塁側の一部以外はちらほらと人がいるだけだった。
まぁ所詮地区予選、しかも中学野球だからこんなもんだろう。
むしろその少数の外部の人間には「何でこの人達はいるんだ、相当ヒマなんだな」という感想が湧いた。
「何でこんな暑い日に」
「授業の方がまだマシ」
「こっそりサボらねぇ?」
応援席のいたる所からこのような文句が聞こえた。
オレの横では獄寺くんも暑さで死にかけた顔で「何で野球バカのためにこんな我慢を…」とぶつぶつと何かの呪文の様に呟いている。
「…獄寺くん大丈夫?たぶんこっそり帰ってもバレないよ?」
あまりにも彼の目が据わっていたのでエスケープを勧めてみたが、
「いえ!大丈夫です!残ります!10代目が我慢してらっしゃるのにオレときたら…!」
と反省されてしまった。
オレも確かに暑くて死にそうだったが、それ以上に野球が見たかった。
野球が、というより野球をする山本が見たかっただけなのかもしれない。
彼は野球をやっている時に一番いい顔をする。
それは素振りをするときや、ノックで汗と泥まみれになってボールを追いかけている時でも、トンボをかけている時ですら変わらない。
たぶん、野球に関わることならどんな小さなことだって彼にとって最高のものとなるのだろう。
そんな彼の集大成ともいえる試合は、たとえ練習試合だとしてもオレはできるだけ見に行くようにしていた。
6回まで1対0が続いた。
回を追うごとに相手ピッチャーの球威は増し、並盛ナインにはチャンスらしいチャンスは巡ってこなかった。
しかし彼らも負けてはおらず、3回に1点を入れられた他はほぼ互角の戦いをしている。
最初は皆あまりの暑さに文句ばかり言っていたが、
徐々に応援に熱が入り、暑さなんて何のその、とばかりに試合の展開に一喜一憂した。
吹奏楽の演奏に合わせて皆声を嗄らして応援という名の叫び声を上げている。
獄寺くんだけが隣で座ったまま、むすっとした顔でグラウンドを睨んでいた。
満塁の危機を何とか凌いで迎えた7回の裏、2アウト・ランナーなしでこの回ももうダメかと思われたとき、並盛バッターがソロホームランを打った。
それが山本だった。
別に勝ち越したわけでもないのに、スタンドが揺れるような歓声が沸き起こって、オレもつられて叫んでしまった。
彼はホームランだとわかるとその場でガッツポーズをし、バットを丁寧に置いて走り出した。
太陽は真上にあって、彼のスパイクに蹴られた土の1粒1粒がキラキラと輝いて見えた。
3塁側の並盛中応援席近くまで来たとき、彼は応援するオレ達に向かって走りながら手を振った。
白いはずのユニホームは土で汚れ、顔も砂埃で真っ黒になっていたが、彼の顔は内に太陽を秘めているかのように眩しかった。
この笑顔がたまらなく好きだ、と思う。
女子の黄色い声や「いいぞー山本ー!」とか「さすが武!」などという声がスタンド中から次々に上がる。
中には「山本ー!あとでチューしてやるぞー!」とかいう声も聞こえ、応援席がどっと笑いにつつまれ、山本もそれに笑って「おー、頼むぜー!」と返していた。
オレも笑って見ていたが、何となく、心が沈んでいくのが分かった。
スタンド中から聞こえる山本への声援に嫉妬心が頭をもたげる。
笑顔でそれに答える山本にも。
なぜこんな気持ちになるのかさっぱりわからなかったが、とにかく山本に向かう全ての好意が気に入らなかった。
ホームベースを踏んで、歓声の中ダッグアウトに戻る途中、ふと上を向いた彼と目が合った。
彼はオレに白い歯を見せてニカっと笑いVサインを作った。
間違いなく、全校生徒の中からオレを見つけ、オレだけに送られた笑顔だった。
思わず頬が緩む。
相変わらず狭小な性格で溜息が出るが、たったそれだけでここにいる誰よりも自分は山本に対して優位であると確信する。
先程までの嫉妬心は消え、今あるのは優越感だ。
彼の中で誰よりも特別だという。
その時、彼がふっと視線を横にずらし、目を細めた。
それは本当に一瞬で、ここにいる誰一人としてそんな彼に気付かなかった。と、思う。
たぶん、オレ以外。
そんな違和感を微塵も感じさせずに、山本はダッグアウトから身を乗り出してハイタッチを求めるチームメイトに応えてから、奥に消えていった。
それはオレが今まで見たことのない表情だった。
彼の目線はオレのすぐ隣だった。
横目でチラリと、たぶん山本の視線の先であったであろう彼を見た。
みんなが席から立ち上がって飛び跳ねたりしているのに、獄寺くんはずっと席に座っていた。
相変わらずむすっとして、足も腕も組んだままで、だけどその目はしっかりとグラウンドを見ていた。
山本を、見ていた。
オレは確かに獄寺くんと山本の間にある、ある種の空気を感じた。
決して割って入ることはできない不可侵領域のようなそれ。
ほんの一瞬だが、それは確かにここにあったのだ。
その意味を考えて、クラリとする。
まさかと思った。
この2人にだけは、それは絶対にないと。
あの誰にも侵せないような濃い密度の空気はもうそこにはなかった。
けれど、その余韻は7回の裏が終わって、8回も均衡のまま終わり、9回に入ってもなお漂っているような気がした。
獄寺くんの言葉を思い出す。
―― 何で野球バカのために ――
彼の中では、最初から今日は『野球部』のためではなく『山本』のためだったのだ。
だからこうして炎天下の中、彼はここにいるのだ。
こんなうるさい集団の中にいることは彼が最も苦手とすることなのに。
9回の表を無失点に抑え、並盛の攻撃の回がまわってきた。
2アウト・ランナー1、3塁。
ここで出番を迎えたのは山本だった。
スタンドから今まで以上の歓声が上がる。
バッターボックスに向かう直前、彼はこちらを振り向いた。
視線の先はオレではなかった。
周りの声援が、どこか遠くから聞こえているような気がした。
太陽は未だ真上にあった。
じりじりとそこにいる全てのものを焼くかのように、真上に居続ける。
山本の目線は既に彼にはなく、ピッチャーを見据えていた。
そんな山本を獄寺くんは表情も変えず、立ち上がることも声を出すこともせず、ただ見つめていた。
2ストライク3ボールの後の、高めに浮いたカーブを叩いた。
同時に3塁にいたランナーがホームに向かって走り出す。
ライナーが三遊間を抜けて、さらにセンターとレフトの間を越えていった。
歓声が爆発して、本当にスタンドが揺れているかと思った。
でもオレはその場に突っ立ったままだった。
ホームに戻ったランナーも、ダッグアウトから飛び出して来たチームメイトに揉みくちゃにされる山本も見れずに。
ただ、芝生を一直線に突き抜けてゆくボールを見ていた。
その軌跡はあまりに鋭く、胸に痛みが走るほどだった。
end.