万華鏡の夜
「ちょっと今から出てこれねえ?」
そう山本から電話をもらったのは、いわゆるゴールデンタイムと呼ばれる時間帯が半分ほど過ぎた頃だった。
だらしなくテレビの前で寝転びながら笑えるんだか笑えないんだかよくわからないバラエティー番組を見ていたオレは、「え?」と聞き返した。
「月。今日すっげーキレイなんだよ。」
まるで女の子を誘い出す口説き文句のような山本の言葉に、山本ってこういうこと素で言うんだよなー、と思い、携帯越しで苦笑いをした。
山本は着飾ったモノの言い方はしない。
きっと、本当に月が綺麗なのだろう。
「別にいいけど…山本、どこにいるの?」
「S町。」
……。
ちょっと待て。今何て言った?
「…S町ってここから5つ町が離れてるS町じゃないよね?」
と恐る恐る訊ねてみると、山本はハハッと笑って
「ばっかツナ。並盛近辺でS町ったらそこしかねーだろー?」とサラリと言った。
S町は並盛からバスでも40分以上はかかる海沿いの町だ。
市内の外れにあるその町は、バスの運行本数も少なければ運行時間も短い。
なぜ彼はこんな時間にそんな場所にいてオレなんかを呼び出したのだろう。
「なんで山本そんな所にいるの?っていうか今から!?今から行ったらそっちに着くの9時近くなるよ!あ、もしバスが丁度いい時間になかったらもっと遅くなるし!」
とりあえず突っ込めるところは突っ込んでおいて、暗に今からそちらに向かっても最終バスですぐ帰ることになる、ということを言い含めてはみたが、やはりそれが山本に伝わることはなかった。
「オレは別に構わないぜ。」
ボーっとしながら待ってっから。ゆっくり来いよ。
的外れな気遣いをする山本に脱力しつつ、ゆっくりしてたら最終がなくなっちゃうよ!と今度は心の中で突っ込む。
山本は一方的に待ち合わせ場所を言い、じゃーな!と電話を切ってしまった。
しばらく切れた電話を呆気に取られて見つめるが、はっと我に返り、財布と携帯電話だけを持って慌てて家を飛び出した。
山本は、どこかひどく脆いところがある。
クラスの人気者で明るくてスポーツ万能で女子にもモテる。勉強は苦手だが、そこがまた完璧ではない親しみやすさを出し彼の魅力を支えていると思う。
彼はいつも輪の中心でニコニコと笑っている。
オレが憧れてやまないものを全て持っているのに。
なのに彼は心の奥底、深くて深くて闇しか見えないところに、彼自身も気付かないくらいひっそりと脆さを抱えている。
さっきの電話。
断ろうと思えば断れたんだ。言い訳なんて幾つでもある。
だけどそうしなかったのは、電話越しの山本の声に、屋上のそのフェンスの向こう側に立った山本の姿とかぶったからだ。
バスはなかなか来なかった。
20分経ってようやく来たバスには、乗客はたった3人しかいなかった。
薄暗い車内から、S町に近づくにつれ徐々に明るさが減ってゆく景色を眺める。
そのゆっくりと闇に近づくような感覚に言いようのない焦燥感が胸に広がり、慌てて頭を振ってその感情を追い出そうとした。
目的地に着く頃には乗客は既にオレ一人になっていて、子供が1人こんな場所で下車することに運転手は不思議な顔をしたが、特に何も言わず降ろしてくれた。
停留所に降り立って、先ほどまで乗っていたバスが行ってしまうと、まだ9時過ぎなのに辺りはしんと静まりかえっていた。
波の音だけが規則的に聞こえる。
ガードレールの向こう側には真っ黒な海が、全てを飲み込むかのようにぽっかりと大きく口を開けているようで、バスの中で感じていた不安がさらに増したような気がした。
とにかく山本を見つけないと。
その静けさを壊すようにわざと足音をたてて待ち合わせ場所に向かって走った。
風にのって潮のにおいがした。
しばらく真っ直ぐ道沿いに行くと、途中ガードレールがきれて砂浜に下りる階段があり、その一番下の段に山本はいた。
山本はオレに気付くと、ツナ!とオレを呼んでニカっと笑った。
思いのほかいつも通り元気な山本にオレは拍子抜けした。
「わりーな、こんな時間に呼び出しちまって」
「いや、それは別にいいんだけど…」
「ほら見ろよ、すっげーキレイなのな!」
そう言われて、そういえば山本からの誘いは月を見ようというものだった、と思い出した。
山本よりも1段高い位置に座り(悔しいがこの方が同じ位置に目線がくるのだ)、釈然としないものを感じつつも彼に倣って空を仰ぐ。
夜空は黒、というよりも、青を幾重にも幾重にも重ねたような藍だった。
そこに月が白く輝ていて、辺りに淡く光を撒いていた。
その光が、さっきまで真っ黒だと思っていた海面を照らし、波が満ち引きする度にキラキラと反射する。
―確かにすごく綺麗だ。
まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような、幻想的な輝きだ。
それに、オレはこんなにたくさんの星を見たのは(っていうか意識したのは)初めてだった。
月がこんなにも輝いているのに、夜空に散らばった星が控えめに瞬くのがはっきり見える。
同じ夜のはずなのに、山本の声1つで1人でいるときに感じた冷たい暗闇が消えた気がした。
こんなにも優しい夜があることも知らなかった。
オレたちは暫らく何も話さず夜空を見上げていた。
時折、少し強い風が吹いて足元の砂を動かしたが気にしなかった。
長いような、それでいて短いような、不思議な時間だった。
横目でチラリと山本を見遣ると、月の光に微かに照らされた山本に、先ほど振り払ったはず山本の姿と重なった。
思わずドキリとすると、オレの視線に気付いた山本が、なーした?何か顔についてる?と言ってふわりと笑った。
――違和感。
電話をもらった時に感じていた不安が再び頭をもたげる。
「……山本。何かあった?」
「なんで?」
即答でそうくるか。
質問に質問で返して答えをはぐらかす山本に眉根を寄せると、「ははっ、わりー…」と彼は苦笑いした。
ハァー、と山本は深く息を吐いて再び空を見上げた。
ブロロロロ、と音をたててバスが1台、オレが来た道を通っていった。
山本はなかなか話し出さなかったが、いつまででも待ってやるつもりだった。
オレよりも頭1個分でかい彼が、今は小さく見える。
まるで小さな子供のようだ。
「オレさ、バカだから、っていうか鈍いから、あんまり柔らかな棘だと気付かないのな」
波の音に消されそうなくらい、山本の声は静かだった。
「それにずっと気付かないもんだから、どんどん周りを傷つけて、棘もどんどん鋭くなっていく。でもオレはその棘がナイフみたいになるまで全く気付かないんだ」
何と言えばいいのかわからずにオレはただ頷いて続きを促した。
「オレ、本当の意味での悪意向けられるのって慣れてなくて、ってか誰でもそんなもん慣れないと思うけど、むしろ初めてで。
ああ、人ってこんなにも恨みが篭った目をすることができるんだなーって思った。」
誰に?とか原因は?とかは聞けなかった。
山本はその出来事の文句を言いたいんじゃないからだ。
整理のつかない感情を吐露したいのだ。
「ありえないくらい傷ついたし、らしくもなくヘコみまくって、部活でもエラーばっかして監督に怒鳴られてまたヘコんで。」
山本は自嘲気味に笑った。
「最初は『何でそんなひでぇ事言えんだ』って思ったけど、そこまでそいつ追い込んだのは、オレ、なのな。たぶん前兆はたくさんあったんだ。オレが気付かなかっただけで。気付かないでただヘラヘラ笑ってた」
そこまで言って、山本は再び息を深く吐いてから顔を膝に埋めた。
オレは正直戸惑っていた。
こんなに小さな山本。
あまりにも危うい笑顔の鎧の、その奥に潜む彼の怯え。
そしてその彼を励ましたり慰めたりする言葉を、オレは持っていない。
どんな態度をとっていいかもわからなかった。
今までオレが人と関わることを怠ってきた罰が、こんな形で、今、あらわれている。
こんなにもオレは無力だ。
何も言えずにいると、山本は顔を上げてまた「わりぃ」と小さく笑って言った。
「らしくないよなー。でもなんかどうにもならないくらい落ち着かなくて、一人になって海でも見たら落ち着くかなーって思ったけどやっぱどうにもならなくて、気がついたらツナに電話してた。」
最後の一言にオレの心臓はドクリと鳴った。
「こんな時間に呼び出してマジでごめん。だけどツナに聞いて欲しかったんだ。…ありがとな、来てくれて。」
何で。何で笑うんだよ。笑いたくなんてないくせに。
「…ツナ?」
オレの腕の中で山本が不思議そうにオレの名前を呼ぶ。
彼より1段高いところに座っていて本当に良かった。こうして山本を抱きしめることができる。
「何があって誰に何を言われたのかはわからないけど、山本は山本だよ。
オレは山本の笑ってる顔が好きだし、山本の純粋さっていうか鈍感さ…って言葉悪いな……うん、でもそういうところにすごく救われる時がある。」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきたけれど、オレは懸命に言葉を紡いだ。
「でも山本の今みたいな笑顔は嫌だ。何で全部感情出してくれないの?
オレ、全然頼りないけど、無力だけど、今だってこうして聞いてることしかできないけど、山本はオレの前で遠慮する必要なんて何もないんだよ。」
ふいにオレの腕に触れていた山本の手に力が入った。
顔は見えない。
山本もオレもそれ以上喋らなかった。
同じ体勢のままでいた。
小さく小さく、こんなに傍にいるのに聞き取るのもやっとなくらいの小さな声で、サンキュ、とだけ山本は言った。
オレはそっと夜を見上げた。
バス停に行くと、運良く最終バスが残っていた。
先ほど通ったバスが最終ではなかったようだ。
「あと10分くらいで来るね」
携帯の時計はもうすぐ11時を指す。
「…山本?」
何も答えない山本を不思議に思って呼ぶと、悪戯っ子のような顔をした山本と目が合った。
「なぁ。こっから歩いて帰らねえ?」
「…はぁ!?」
出た。山本節。
「きっと朝までには着くだろ?」
「………。」
なんと恐ろしいことを…さすが山本。
オレの答えを待たずもう歩き出している。歌なんか口ずさみながら。
しかし先ほどまでの泣きそうな笑顔をする山本ではなく、いつも通り無邪気な笑顔の彼の前では何も言えなくなってしまう。
少しだけ、目尻が赤い。でもすっきりとした顔だ。
助ける、なんて何ともおこがましいが、こんなオレでも彼の力になることができたのだろうか。
「だってこんなにキレイなんだぜ。バスに乗るなんてもったいねーよ」
相変わらず藍の空には無数の星が散らばり、月は白く光っている。
その光は優しく海を照らし、暗い波がそれを反射し、きらきら光る。
波の音と、潮のにおい。
並盛まで耐久ウォーキング。
バスが1台、オレ達を追い抜いていった。
さぁ、これで歩くしかなくなった。
家まで辿り付けるか自信はないけれど何とかなるだろう。
こんなにも、どこまでも歩けるような夜なのだ。
end