彼との思い出はいつも笑いの中にあったと思う。
ちょっとした悲しみを伴って。







たゆたう







兎にも角にも、彼は部下がいないと恐ろしいくらいドジを踏むし、その踏んだドジに必ずと言っていいほど人を巻き込んだ。まったく外見からは想像も出来ないようなトラブルメーカーだ。
しかし部下がいると今度は恐ろしく男前になる。その冴えた目には背筋がゾクリとするくらいだ。
頼りになるんだかならないんだかよくわからなかったし、それでも彼は明るくて親切で、良き友達で良き兄貴のようだった。
彼はイタリア人で、仕事も向こうにあるようではあったが結構な頻度で日本に来てはオレやツナ達と遊んでくれた。
ツナや獄寺と違う高校に入ってからはお互い時間が全くかみ合わず一緒に遊ぶことは稀だったが、彼は時々ふらりと突然1人でオレの前に現れてはオレを驚かせた。
日本に来るたび、忙しさの合間にオレの為に時間を割いてくれているらしく、オレは素直に嬉しかった。
13の時に何かの因縁のように出会い、何だかんだでそれから5年、こんなふうに彼とは時たま会っている。

彼とは心地良いくらい波長が合う。




学校の帰り道、友人と別れて1人大通りを歩いていると、後ろから、よぅ、と声をかけられた。
自然に笑みがこぼれる。はじめは驚いた彼の突然の訪問も、今では慣れたものだ。
「今回も急っすね。ディーノさん」
そう言って振り向くと「あれ、もう驚かねーの?」と彼は悪戯っぽく笑った。
「3ヶ月?4ヶ月振りくらいっすね。どうしたんすか?」
「あーまだ最後に会ってからそんくらいかぁ。もっと会ってない気ぃすっけどな」
彼は特にオレの質問に答えるわけでもなく、オレはオレで特に問い詰めるでもなく、いつものように自然に会話は違う方向に弾んだ。


彼の人の良さは一緒に歩いているだけで手にとるようによくわかった。
例えば、今みたいな夕暮れ時。
真っ赤な空と、その赤に染まってたなびく雲の間を、これまた真っ赤な太陽がゆるやかに落ちていく時、彼は目を細めて幸せそうな顔をする。
母親と手を繋いで楽しそうにその日あったことを一生懸命しゃべる子供を見ると、彼は微笑ましいなぁというような表情をする。
子供が転ぶとつられて痛そうな顔をするし、その子供が起き上がってまた元気に走り出すと安心した顔をする。
オレは彼のこんなところが好きだった。
部下がいる時や戦う時の彼の凛とした表情も好きだけれど、オレは断然この自然な、何にも縛られていない彼の素直な表情が好きだった。


「なー山本。こないだ作ってくれたヤツ…何つったっけなあアレ。…ジャガ?じゃねーし…豚…?えーっと…」
「肉じゃがのことっすか?」
本当に名前を思い出せなくてイライラと頭を掻く彼を見て、オレは笑いながら教えてあげた。
「お!それそれ!お前のおふくろさん直伝の味の!」
ぱっと顔を輝かした彼が微笑ましい。年上の男にそんな感想は怒られるだろうか。
「もう1回それ作ってくんねーかな?美味すぎて忘れらんなかった」
前に彼がオレを訪ねて来たとき、彼に料理を披露したことがあった。
披露する、というような大したものではなく、いたって簡単な家庭料理だ。
夕飯時は自営の店が一番忙しくなる時頃でもあって、小さい頃から母が夕飯を作るときは手伝ったし、用意できない時は自分で作っていた。その程度だ。
その程度でしかないのに彼は、美味い美味い、と言いながらペロリと2人前をたいらげたのだった。
「また作ってくれよな」「こんなんでよければ」
確かそんなような約束を交わしたような気がする。
この人はいつももっと凄い料理を食べているだろうに、と思いつつも彼の大げさ過ぎるほどの賞賛は照れくさかったが素直に嬉しかった。

2人でスーパーではしゃぎながら材料を買い込み、彼がいつも泊まるホテルに行く。
何度この部屋に入っても溜息が出る。
最上階のこのキッチン付きスイートルーム。
ここはどっかのマダムの家か?と思うような広いキッチン。
リビングには長い毛並のカーペットに、シンプルでセンスの良い、だけど高級感が溢れ出している家具の数々。ガラス張りのテーブルの上にはフルーツの盛り合わせがある。
そこからオレの部屋の何倍あるんだろうと思わず考えてしまう広さのベッドルームに続いている。
こんなところで庶民の料理を作るのはさすがのオレでも少し気が引ける、と今回もこのありえない室内を見渡して思った。
そうこうしているうちに彼は材料をキッチンカウンターに広げ始め、何から始めればいいんだ?と張り切って包丁を持ち出したのでオレは慌てて彼を止めた。
「いや、ディーノさん。オレやるからいいっすよ。…何か流血沙汰になる気がする」
「なんだよ。酷えなオイ。任せろってーの」
「ムリムリムリ!座ってテレビでも見ててくれた方がオレが安心する!」
「はぁ!?マジ酷え!」
ゲラゲラ笑いながらコントみたいなやり取りをして半強制的にキッチンから彼を追い出す。
やれやれ、というように肩を竦めて柔らかそうなソファに腰を下ろす彼を、カウンター越しで笑いながら見送った。

体に染み付いた手順で材料を切り、炒めて、味付けをしながら煮込む。
時折彼は振り返ってオレの様子を伺う。いい匂いだなーなんて言いながら。

肉じゃがの他にも簡単な惣菜を作り、味噌汁とご飯もつけて彼の前に出すと、うわっ美味そ、と彼は呟いた。
2人で手を合わせて、声をそろえて「いただきます」なんて行儀良く言うと、どちらからともなく笑い出して止まらなくなった。
だらしなく笑いながら飯を食い、今度は「ごちそうさまでした」と声を揃えて言い、彼がやると言ってきかないので一緒に後片付けをした。
案の定、水や泡はそこら中に撒き散らすし皿は割るしで、はっきり言って自分一人でやる方が万倍楽だった。
だけどそれすらも異様に楽しくて、バカみたいにずっと笑い転げていた。


いつも彼はホテルのエントランスまで見送ってくれる。
「飯、マジ美味かった。サンキューな。しっかしオマエが料理できるなんてホント意外だよな〜」
「ははっ。どーいたしまして…ってそれ褒めてんすか?ディーノさんは1人でいる時は絶対包丁握ったらダメっすよ」
「ほっとけ」
そんな軽口を叩き合いながらエントランスに向かう。
ふかふかした絨毯から大理石へと変わる境界線で「じゃあ」と言って顔を上げると、彼の冴えた目がこちらを見つめていた。
思わずギクリとして無意識に背筋を伸ばす。
「なあ山本。お前イタリア来る気はねえの?」
ああ、それか。と思う。今までにもツナや獄寺に何とはなしに幾度も訊ねられていたことだ。
最初の頃は“ごっこ”だとしか思わなかったそれも、今やそれは紛れもない“現実”だということを理解している。…つもりだ。
それを理解した上で決断しなくてはいけない未来が、すぐそこまで迫っていることも気付いている。
獄寺は『今更この世界から抜けられると思うな、お前はもう戻れないくらい踏み込んだんだ』と警告するかのように、そして子供に言い聞かせるようにオレに言った。
わかっている。
戻るにはもう遅いのだとは思う。
けれど、頭では理解していても心のどこかで割り切れない思いがあった。
はっきり言う。オレは今の自分を取り巻く環境を愛している。
少し前まではスリルのある日々に憧れていた。
強くなりたかったし、強くなっていく自分に何ともいえない高揚感を覚えた。強いヤツとも闘いたかったし、そういうヤツらと対峙する時の、あの血が沸騰するような興奮は忘れられない。
だけど“現実”としてその未来を考えたとき、何度考えてみてもその未来に現実感はなかった。
そして、それよりも何よりも、今のこの心地よい環境を捨てることが恐ろしかった。
野球はもう生活の一部だ。最後の甲子園はベスト4だったが大学からスカウトもきた。プロになるつもりなど全くないが、それでも自分の野球が認められたのだと思うと嬉しかった。
家族のことだってそうだ。オレは親父の握る寿司は世界一だと思うし、それを残していきたいとも思っている。
親父は自分の好きなことをやれと言うが、自分が最終的に帰ってくる場所はここであると確信している。
いつかは親父に代わって、そして次に繋げて。こうやって自分たち家族の存在を残したい。
自分の生まれ育った所で穏やかに暮らしたい。

オレが何も言えず俯いていると、彼はふっと息を吐いて、ポンっとオレの頭に手を置いた。
その目からは先程の鋭さは消えて、今は優しい兄貴のような眼差しだった。
「ハハ、お前でも悩んだりすんだなー。いや、わかるぜ、お前フツーーに育ったんだもんなぁ」
…にしては天然すぎるけど。と言って彼は笑った。
言っていることがいまいち理解できなくて首を傾げる。
「父親と母親がいてさ。兄弟もいて。日本の標準的な核家族。
 父親は頑固だけど家族をちゃんと愛していて、母親も穏やかでいつもにこにこしててさ。でも時には父親を諌めたり。兄弟とはたまにケンカするけどすぐ仲直りするんだ。
 これといった不満もなくて、平凡だけど幸せな毎日。」
それがどうイタリア行きと繋がるのか分からないのはオレがバカだからだろうか?
そんなオレを見遣って、また彼は笑った。それから優しく目を細めて言った。
「そんな平凡な幸せが一番捨てるのに覚悟がいるんだよな」
思わず目を見張った。
今オレは、この人はエスパーで人の心が読めるんだぞ、と言われたら信じてしまうだろう。
びっくりしているオレを他所に彼は続ける。
「ゆっくり…とはいかねえけど、納得のいくまでじっくり考えろ。たまには野球にしか使わない頭を他のことにも使ってやれ。  お前の未来はお前しか決められねーんだ。
今までなあなあできたなら、ちゃんとここらで区切りつけろ。」
もう彼の目は笑っていなかったが、それでも言い終わると子供をあやすようにオレの頭をポンポンと叩いた。
突き放した優しさが心に沁みる。胸のずっと奥がぎゅっと縮まったような気がした。

「ほら、もう帰れ」
そう言って自分から離れていく手をじっと見ていた。
「…わかった」
じゃあまた、と言って歩き出すと、つい先程「帰れ」と送り出した声が背中に届いた。
「山本」
振り返ると、何ともいえない表情をした彼がいた。
「それでもオレはお前がイタリアに来てくれると嬉しいよ」






帰り道、彼の言葉の意味を考えながら空を仰いだ。
空気が澄んで空がいつもより高く見える。
月も星も白く光っていた。
夏は確実に終わりに近づいて、秋の気配がした。

自分の中で何かが波立って、ゆらゆらと揺れるのがわかった。